シンポジウム01|過去の未来/未来の過去「アニメ・まんがの50年史」

『宇宙戦艦ヤマト』の放映が1974年、『機動戦士ガンダム』が79年、ガンダムシリーズの躍進とアニメ関連雑誌が隆盛する80年代に産み落とされた『風の谷のナウシカ』『ビューティフルドリーマー』、そこから『攻殻機動隊』(90年劇場公開)『新世紀エヴァンゲリオン』(95-6年)を経て、00年代に至るまで特異な形で発達した日本のアニメーションは、「未来」を描き続けてきました。もちろん未来を描き出すことは、70年代以降のアニメやまんがに特有のことではなく、それ以前のまんがやアニメ、そしてアニメ以外の領域でも「未来」は、その作者が描き出すその時点での未来社会への想像力を指し示すものであり続けてきました。しかし狭義のアニメコンテンツが、私たちの生きる現在が終焉した後の「未来」における日常や社会のあり方を精細にビジュアライズするようになってきたのは、やはり70年代以降に顕著な傾向であると考えられます。現在の終焉後の世界を描いた『AKIRA』、ギブソンの『ニューロマンサー』がともに80年代に生み出されたことも忘れるわけにはいきません。それらは未来を描き出すことによって、その未来において終焉した現在を描き出していたともいえるわけで、同時代的な社会批評でもあったと考えられます。

本シンポジウムでは、こうしたアニメーション、まんがにおける未来、つまり「過去の未来」の系譜をたどりながら、それらの作品・表象が想定していた「現在=未来の過去」への問題意識、批評的まなざしをたどり返し、「クールジャパン」といった標語で奇妙な形で持ち上げられてしまったアニメ・まんが文化の<現在>を考察していきたいと思います。

たしかに00年代以降も「優れた」と形容されるべき作品は多々生み出されてきました。いま米独仏などの海外の販売会、コスプレなどをみるかぎり、もっとも人気を博しているのは、『NARUTO』であり『One Piece』であり(少し前だと『涼宮ハルヒ』)、いずれも現在の終焉後に現れた「未来」というよりは、現在とは異なる可能世界のあり方が描かれているように思います。『ビューティフルドリーマー』はその可能世界が日常から染み出してくる姿を描き出したという意味で、「未来」の時代である80年代において特異な位置にあったわけですが、現在では、「他なる現在」を舞台とすることがひとつのデフォルトになっているようにも思えます。少なくとも、「グローバリゼーション」のなかで広がっている作品にそうした「他なる現在」を扱ったものが多いことは事実といえます。

また、過去にさかのぼっても「ここではないどこか」として「未来」が参照点となっていた作品の多くは「男の子」向けであり、「女の子」向けの場合、それは西欧であったりアメリカであったり、あるいは時間軸を設定しえない別の現在世界でした(萩尾望都、竹宮恵子の「未来」は、男性群向けのそれと同じものといえるでしょうか?)。仮に「他なる現在」という時間意識が男女向けともに前景化しているのだとすれば、そこに何かの徴候を読み取ることができるようにも思えます。

こうした「未来」と<現在>の関係のあり方の変化は何を意味しているのでしょうか。またその変化と現在のアニメ・まんが産業が置かれた状況、海外での展開などはどのようにかかわっているのでしょうか。本シンポジウムでは、日本のアニメ・まんが史を学術的研究の対象とする嚆矢となった大塚英志氏、過去の未来像の系譜から社会意識の変容を読みとく『未来の社会学』の著者である若林幹夫氏、ドイツを拠点とし、アート・ディレクターの立場から『プロト・アニメカット』展などをプロデュースされてきたシュテファン・リーケレス氏、「やおい」をめぐる受容者たちの社会のあり方を鮮明に描き出した東園子氏をお迎えし、まんが・アニメ史、社会学、アートとしてのアニメ・まんが表象、コンテンツ産業論、受容論など様々な観点から「過去の未来」を分析し、未来の過去としての現在のあり方を照射していきたいと思います(司会・北田暁大)。多くの方がたのご参加をお待ちしております。

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国際シンポジウム01
過去の未来/未来の過去「アニメ・まんがの50年史」
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日時:2015年8月29日(土)11:30〜14:00
場所:東京大学本郷キャンパス構内(参加申込をいただいた方にはメールにて詳細をお伝えします)
定員:200人

<参加申込>
http://goo.gl/forms/ru5yXkw6Ak
※参加申込は前日までにお願いします(定員になり次第、受付を終了します)

【 登壇者 】
大塚英志(民俗学・国際日本文化研究センター)
若林幹夫(社会学・早稲田大学)
シュテファン・リーケレス(メディアアート)
東園子(社会学・大阪大学)

【 司会・進行 】
北田暁大(社会学・東京大学)

第二回フォーラム「問題としての多文化主義:表現・アイデンティティ・(不)寛容」

ここ数年来、日本国内でヘイトスピーチが顕在化し、とうの昔に学術的には埋葬されたはずの「単一民族神話」がマスメディアにおいても垂れ流されています。日本国内の現状では、多文化主義、また多文化主義からの議論の発展も黙殺される危機にあるといってよいでしょう。そもそも日本では、多文化主義という状態は果たしてあったのでしょうか。 自らのアイデンティティを問わずにいることができるひとたちの表現が、私たちの日常を覆い隠しているかのようです。そのようななかで、アーティスト等、文化の担い手はどのような実践を重ねているのでしょうか。

また、日本よりはるかに深度をもって現実の制度を組み立てていると思われるヨーロッパにおいても、同様の問題が噴出しています。政治権力に対する風刺という表現の自由を伝統としてきた「共和国」において民族的・宗教的マイノリティたちは、その共和国の伝統と信仰の間でたえず日常を問い返すことを余儀なくされています。記憶に新しい「シャルリ・エブド事件」はそうした「文化戦争」が顕在化する契機となったといえるでしょう。

一方、現代美術においては、「大地の魔術師展」(1989年)以降、非西洋文化に対する関心が、ポストコロニアルな思想やグローバリゼーションとも関係しながら、欧米以外の美術家に対する注目を促してきましたが、その文化理解には問題も指摘されています。

「第二回社会の芸術フォーラム」は以上のような社会学、憲法学や美術史からの多角的な視点を踏まえた議論を行います。アーティスト、キュレーター、評論家、研究者など、様々な立場で芸術に関わる者は、自らの文化的立ち位置を自認しないことには、世界の中でその表現を問うことが成立しないと思われます。多文化主義について考えることは、日本において芸術に関わろうとする者全てに自分の文化的立ち位置を確認することの契機になると考えます。

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第二回フォーラム
問題としての多文化主義:表現・アイデンティティ・(不)寛容
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日時:2015年8月29日(土)14:30〜18:00
場所:東京大学本郷キャンパス構内(参加申込をいただいた方にはメールにて詳細をお伝えします)
定員:200人

<参加申込>
http://goo.gl/forms/ru5yXkw6Ak
※参加申込は前日までにお願いします(定員になり次第、受付を終了します)

【 登壇者 】
志田陽子(憲法学・武蔵野美術大学)
韓東賢(社会学・日本映画大学)
加治屋健司(美術史、表象文化論・京都市立芸術大学)
リュウ・ルーシャン(アーティスト)
山本高之(アーティスト)

【 司会・進行 】
竹田恵子(文化研究・東京大学)
神野真吾(芸術学・千葉大学)
北田暁大(社会学・東京大学)

東京都現代美術館の「撤去要請」問題について

「社会の芸術フォーラム」は、東京都現代美術館の「おとなもこどもも考える ここはだれのばしょ?」展における、会田家(会田誠、岡田裕子、会田寅次郎)による作品《檄》をめぐる一連の出来事について高い関心を寄せております。

美術館の公式見解を現時点で明確には得られていないので、本フォーラムからの問題提起等については今後の経過をみながら、適宜速やかに行っていきたいと思います。いずれにせよ、美術館という公共的・社会的な教育・展示施設のあり方について、広く社会的・芸術学的・公共政策的・法的な議論が深められる必要があると考えます。

そのための開かれた議論の場を、「社会の芸術フォーラム」でも用意したいと考えています。


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社会の芸術フォーラム
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北田暁大(社会学)
神野真吾(芸術学)
粟生田弓(写真研究)
小倉 涌(アーティスト)
藤井 光(アーティスト)
竹田恵子(文化研究)
豊嶋康子(アーティスト)
田中功起(アーティスト)
山本高之(アーティスト)
加治屋 健司(美術史・表象文化論)
長谷川 仁美(キュレーター)
井上文雄(CAMP)
成原 慧(法学)