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「社会の芸術フォーラム」設立趣意

現在、さまざまな場所でアートと社会との関係性をめぐる議論が提示されています。

地域系アートは地域社会のあり方を、アートを通して、アートにおいて問い返していく試みであり、また、「社会」との接触においてアート自身が変容を迫られる、そうした再帰的な実践であるといえます。というか、そうであるはず、そうでなければならないはずです。アートによって社会の日常に異和をもたらし、日常そのもののあり方を問い返していくとともに、アートそれ自体が社会との関係を「アートであるがゆえに可能である」という自律性を踏まえながら捉え返していく契機。そうしたものが、地域系アート、あるいは特定の地域を舞台としたリレーショナル・アートの眼目であると考えます。いうまでもなく、様々な地域でその実践は「成功」を収め、今では把握しきれないほど数多くの取り組みが、日本全国の至るところで行われるようになってきました。今後東京五輪の開催に向けて、こうした動向はますます加速していくことでしょう。

しかし、そうした「成功」は果たして、社会とアートとの相互反映的な関わり方の成功であると言い切れるでしょうか。個々の作品ではそうした意味での成功を収めたものも少なからずあることは間違いありません。ですが、いわゆる「街おこし」や「経済効果」というアートでなくとも可能な「機能」に還元されてしまっている事例もまた少なくないと思われます。そうした「機能」であれば、アートでなくとも達成しうる機能的等価物が存在しています。また他の機能的等価物(公共工事など)のほうが、当該の機能を果たすには効率的であるとすらいえるかもしれません。また多くの若手アーティストが発表の機会を求めて、そうした地域系アートへ積極的に参加するようになっています。しかしそこにおいて、社会とのアートの相互反映的な関わりがどれだけの深度をもって捉えられているかは不分明と言わざるをえません。

難しい問題です。

アートだからこそ発揮できる機能、機能的な等価物と入れ替え不可能なアートのあり方を考えていくためには、アートの自律性とともに、社会におけるアートという実践の機能を精査していく必要があります。自律性と他律性という単純な問題ではありません。「地域系」を謳う以上、必然に関係をもたざるをえない「社会」なるものを、アートがどのように捉え、かかわりをもっていくか、その方法論が切実に問われているのではないでしょうか。とりわけ現代アートは、その文脈を知らない「一般のひと」にはきわめて付き合いにくい存在です。それに対して、自律性への信憑をもとに、ひとびとのアートへの無理解を嘆いて見せることも可能でしょう。

しかし、たださえそうした文脈限定性のなかにある現代アートが、「社会」とかかわりを持つとすれば、そうした開き直りは禁じ手としなくてはならないはずです。アートの側が、「社会」を単層的に見てしまっている可能性を考えざるをえないのですから。「社会」なるものを、単に「芸術の外部」「作品や制作の実質とは無関連な下部構造」と捉えるとすれば、それは、「ひとびとがアートを単純視」しているのと同じく、「アートが「社会」を単純視している」ということになるのではないでしょうか。

さまざまなアートが都市空間に繁茂するなか、わたしたちは「アートの単純視」「「社会」の単純視」という二重の単純視をあらためて考え直したいと考えます。本来この二重の単純視の不幸な関係性を変容させ、アートと社会の相互反映性を媒介していく契機が、地域系アートというものの出発点であったはずです。この原点に立ち戻り、相互反映性を実現するための方法論を模索すること、そしてその方法が他の機能的等価物によって入れ替え不可能なものであるかを評価すること。そうしたことが、地域系のみならず、都市や空間との接触平面を持つ現代アートの次のステップとして求められているのではないでしょうか。個々のアーティストが自らを規定し、そして期待されている場所の、社会の変容を生起させることは、結局のところ個人がどのように世界を眼差し、どのように行動するのか、というところに帰っていくことになろうかと思います。その契機はこの「アートと社会の相互反映性」にこそ求められるはずです。

相馬千秋氏を中心として本年設立された芸術公社のサイトには、「1.「あたらしい公共」を提案し、体現する」「2. 時代と社会に応答するあらたな芸術の方法論を提唱し、実践する」 「3. 異なる専門性を持つディレクターによるコレクティブ」「4. アジアにおけるプラットフォームを目指して」といった四つの目標が記されています。芸術公社がアートディレクションサイドからアートの公共性を実践的かつ理論的に取り組んでいかれるのだとすれば、私たちはむしろ、アートワールドを人文学的・社会科学的な側面から検討し、アートワールドという社会、あるいはアートワールド「と」社会の関係を、問い返していきたいと思っています。アーティストとキュレーター、批評家、研究者の相互的な討論のプラットフォームを形成し、アートの実践、批評の言語の新しい形を模索する。そうすることによって、上記の「アートと社会の相互反映性」を領域横断的に考察していくことが、私たちの目的です。

社会学者のニクラス・ルーマンは、「社会システム Soziale Systeme」を、①相互行為、②組織、③全体社会(機能システム)という三つに分類しています。芸術にそくしていえば、①ではアーティストの制作実践や展示行為、観客の鑑賞など、いわゆる「コミュニケーション」としての社会が問われるでしょうし、②はいわゆる「アートワールド」、つまりアートをめぐる制度的背景、経済関係、組織構成、ヒエラルヒー、有名性の機能などの社会的なあり方が問われるでしょう。そして、③では、芸術システムという自律した機能システムが果たす機能、他のシステム(法システムや経済システム、教育システムなど)との関連性が問われることになります。

「社会」といっても、一口に表現できるものではありません。様々な水準における「社会」のあり方を丁寧にたどり返し、社会の複雑性を十分に踏まえながら、次なるアートの実践へとフィードバックしていく、そうした回路を整えていく必要を感じます。社会はアートの外にあるものではなく、アートそれ自体も社会的実践であり、自律性の意味論もそうした実践の反復を可能にする社会的なコードである、と考え、ロマン主義的な自律性神話とも、悪しき社会学的なイデオロギー論とも異なる、アートと社会の関係を考察する言説と場が切実に求められている、とわたしたちは考えます。

そうした問題意識にもとづき、私たちは、アーティスト、キュレーター、批評家、芸術研究者、芸術教育研究者、社会学者、文化研究者、経済学者、政治学者、文化行政の関係者、ワークショップの実践者、編集者、ジャーナリスト等が集まり議論を重ねる場を設計し、「社会〈と〉アートの関係性」をめぐる言説と実践のバージョンアップを図るべく、「社会の芸術フォーラム」を立ち上げることとしました。個々の論点については、見解の対立はあるでしょうし、それはむしろ歓迎されるべきことと考えます。そのうえで、上記のようなアートと社会の複雑な相互反映性を精査する、という問題意識を共有していただける方と、「異種格闘技」をしていきたいと思います。

発起人
粟生田弓(写真研究)
岡田裕子(アーティスト)
小倉涌(アーティスト)
北田暁大(社会学)
神野真吾(アーティスト)
藤井光(映像作家)
竹田恵子(文化研究)
豊嶋康子(アーティスト)
田中功起(アーティスト)
山本高之(アーティスト)



2016年度の活動について

今年度は体制を少々変更し、事務局の井上文雄と竹田恵子が共同代表をつとめることとなりました。昨年度のテーマを引き継ぎつつ、今年度は以下のような活動を行い、地道に活動を根付かせていきたいと考えております。

計画のひとつは、去年度のようなフォーラムを継続していくことです(年4回開催予定)。これは現在進行形の問題を俎上に載せ、さまざまな分野の専門家、実践者が集まり議論を重ねる場が必要であると考えます。フォーラム開催後には、テーマを整理するためにレクチャー・シリーズを行います。加えて、アートの社会的関与をめぐる問題に関連する文献読書会、ケース・スタディ、ディスカッションを設けます。一連のサイクルを経ることでより継続的に、深くテーマついて考える機会を得られるようにします。

二つめに、昨年度のフォーラム、レクチャー・シリーズで取り上げたテーマ「公共性」「多文化主義」「搾取」「包摂と排除」「表現の自由/不自由」を再構成した書籍を制作いたします。アートと社会の関係性をめぐる言説と実践を整理し、教科書としても使用できる堅実な書籍を目指す考えでおります。

三つめは、教育プログラムの構築です。「社会の芸術フォーラム」の理念を根付かせるためには、教育がいまもっとも重要かつ、緊急の課題であると考えます。急速に変化したアート・シーンに対応する芸術教育に必要なプログラムを提案します。

みなさまとお会いできる機会を本当に楽しみにしております。